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アート/ART 

ART PROGRAM K・T 

ピカソⅠ「神童」

パブロ・ピカソ(1881~1973) スペイン

スペインが生んだ20世紀最大の天才画家。ピカソが創り出したキュビスム(立体派)と呼ばれる絵画様式は、20世紀美術に多大な変革をもたらしました。生涯、13,500点の油彩画と素描、100,000点の版画、34,000点の挿絵、300点の彫刻・陶器を制作しました。
彼の作品を、表現の特徴で区分すると、

 1.初期の作品
 2.青の時代  
 3.バラ色の時代
 4.アフリカ彫刻の時代   
 5.キュビスムの時代
 6.新古典主義の時代
 7.シュルレアリスムの時代
 8.1930年代初期の作品
 9.ゲルニカ
10.第2次世界大戦とその後
11.後期作品、晩年の作品

となります。今回は、初期の作品を紹介します。

【初期の作品・修行時代(1895年~1900年)】

ピカソが初めて口した言葉は「ピス(鉛筆)」でした。美術教師であった父親のホセ・ルイスの勧めで1888~89年頃から絵を描くようになりました。幼くして父親も驚くほどのデッサン力を発揮します。息子の才能を認め「お前には、もう何も教えることはない」と言って、自分の絵画道具一式をピカソに譲り渡したエピソードが残っています。

1892年 弱冠11歳で、ラ・コルーニャの美術学校入学。 
1894年 父親から絵画道具を譲り受ける 
1895年 14歳でバルセロナの美術学校に入学。
1897年 16歳でマドリードの王立美術学校に入学。同年中退する。
1899年 バルセロナに戻る   
1900年 パリに出る。

ピカソ11歳のデッサン
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的確な明暗や形の捉え方、ピカソが間違いなく神童であったことを物語る素描。

ピカソ15歳のデッサン
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《初聖体拝領》1896年
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家族をモデルにして、古典的手法を用いて描いた最初の大作。的確な描写はとても15歳の少年が描いたとは思われない。恐るべき15歳です。

《科学と慈愛》1897年
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初めてアトリエを持った、ピカソ16歳の時の大作。医者が科学を、尼僧が慈愛を表しています。既に古典的な技法を充分マスターしていたことが窺われます。


古典的な表現から独自の画風へ

バルセロナからパリへ、アカデミズムと訣別して独自の表現を探り始めます。

《長椅子》1899年
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18歳ながらも、バルセロナのカフェの生々しい男女の姿を描いています。

《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》1900年
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1900年、バルセロナから親友のカサジェマスと二人でパリに出ます。世紀末の雰囲気漂うパリでは、歓楽街に集う男女やそこで働く女性達を描きました。ロートレックから大きな影響を受けます。ルノワールが描いたことで有名なレストラン。夜景に浮かび上がる華やかな女性たち。テーブルで囁き合う二人の女性が強調され、左端に描かれた笑みを浮かべる女性が印象に残ります。ルノワールの作品とは異なる表現の「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」享楽的な世紀末パリの洗礼を受けたピカソ19歳の時の作品。

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ピカソⅡ「青の時代」

青の時代 1901年~1904年   「悲しみと苦悩の色彩」

親友カサジェマスの自殺を契機に、ピカソは青色を基調とした暗い画面で悲哀に満ちた作品を描きだす。
青色の冷たく暗い色調で、「死」「苦悩」「絶望」「貧困」「悲惨さ」「社会から見捨てられた人々」などをメランコリックに表現しました。

《死せるカサジェマス》1901年
死せるカサジェマス1901年_convert_20100412092739

友人の死はピカソに大きなショックを与えました。死の床につく、青ざめたカサジェマスの顔の輪郭をローソクの光りが金色に映し出しています。額を打ち抜いた弾の痕を描く、ピカソの心底の悲しみはどんなに深いものであったでしょう。


カサジェマスの埋葬・招魂1901年_convert_20100412092853

青の時代の幕開けを告げる作品。構図はエル・グレコの作品にならい、地上における死と昇天の上下の二層的表現になっています。

エル・グレコ《聖マウリテレスの殉教》1580~82年
聖マウリテレスの殉教1580~82年_convert_20100412094546


《浴槽(青い部屋)》1901年
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青の時代の始まりに位置する重要な作品。当時、住んでいたアトリエの様子が窺えます。壁にロートレックのポスターが貼ってあるのが、彼からの影響の大きさを物語っています。

ロートレック《メイ・ミルトン》
マイ・ミリオン

《自画像》1901年
自画像1901年_convert_20100413114645

「青の時代」を代表する作品。20歳の若者らしさは無く、どこか年老いた感じがします。早くして味わった人生の厳
しさ、深い悲しみや苦悩を抱えたピカソの心理が、静かな目線となって表れています。姿は、量感と輪郭線の単純化によって強く表現され、暗いものを包み込むかのように大きく描かれています。繊細に茶色で描かれた髭が、青い画面の中でアクセントとなって美しい。

《うずくまる女性と子供》1901年
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梅毒に罹った売春婦たちが多く収容されていたサン・ラザール収容所を、ピカソは特別の関心を持ってよく訪れました。包み込むように子供を抱きかかえ、目を閉じて子供に寄り添う母親と、目を伏せてじっと下方を見つめる子供。その姿に悲しみや絶望感が伝わってきます。不安な母親の気持ちを表すかのように、衣服や背景が青くうねるように表現されています。

《ラ・ヴィ 人生》1903年
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青の時代の代表作。それまでの様々なテーマが要約されています。作品解釈が難しく、ピカソが何を語ろうとしたのか、内容は謎めいています。左側にはカザジェマスと愛人、右側に子供を抱く痩せた母親を描き、間に失意と絶望を感じさせる二枚の絵が挟み込まれています。カザジュマスの指先が、二人の明るくはない将来を暗示するかのような母子像に向けられています。

《貧しき食事》版画 1904年
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盲人と女性の寂しそうな食事風景。不自然に曲げられた手首に痩せた腕、絡まるような細い指先が、穏やかでない二人の心の内を表しているようです。満たされぬ人生への思いを、空の皿やパンとブドウ酒だけの食事として表しています。2004年、1億2千万円で落札されました。


《盲人の食事》1903年
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青い色調の変化が美しい作品でです。右手より左手に光をあて、顔の明るさとバランスをとっています。それと同時に、盲人にとっての手の重要さを浮かび上がらせています。両腕が作る直角と、机が作る角度の対比が、画面を造形的に面白くしています。

《ラ・セレスティーナ》1904年
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売春宿の女主人の肖像画。残酷そうな表情の女性を描いたこの作品は、若きピカソと現実の厳しさとの出会いを象徴しているともいわれています。隻眼ではあるが、物事を見透かすような鋭い眼光で描かれています。一度見たら忘れられないインパクトのある作品と言えます。青い色調から浮かび上がる顔の色がとりわけ美しく、作品全体の青色と見事に調和しています。また、コートの深い青色が、三角形の構図とともに女性の存在感をさらに高めています。

《シュミーズ姿の少女》1905年
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青の時代からバラ色の時代へ移行していく時の作品。首から顔にかけては美しく立体的に描かれ、それ以外は軽くスケッチ風に描かれています。その強弱さが表現の深さと結びつく作品です。

【なぜ青色を使ったのか?】

何故、青を使ったのかという問いに対しては、エル・グレコの影響、青色の絵の具が安かったから、故郷マラガの空や海の色が心に残っていたからとか様々な憶測がなされています。友人の死を境に青色で描くようになったのですが、いずれにしても、ピカソはその「青」によって、悲哀、苦悩、不安、絶望、貧困、社会から見放されて最底辺で生きる人々など、人生の悲劇的で憂鬱な側面を描きだしました。それには、これから絵を売って生きていくピカソの、作品購入者の心理や時代状況を読んだ、ある“ねらい”があったのではないでしょうか。それが、ピカソを若くして成功させた要因になっていると思われます。

【憂鬱(メランコリック)な主題を「青」で描いたピカソのねらい】


青は本来、西洋では「神の色」であり「高貴な色」として使われてきました。後に抽象絵画を創始したカンディンスキーは、「天上の色」とまで表現しています。西洋絵画の伝統において、青が憂鬱さや貧しさなど負のイメージと結びついて表現されたことはありませんでした。このように、当時の人々が持つ青のイメージは、「遥かなる憧れの色」であり「希望」の色でもあったのです。ピカソは、そのような人々が抱く青のイメージを作品に織り込んで、悲哀に満ちた作品を描きました。

ピカソの戦略的なカラーワーク「神の色」で絶望や悲しみ、打ちひしがれた人々表現することによって、憂鬱で悲しみに満ちた画面の中に、気品や深い精神性を感じさせる。



《座る裸婦》1905年
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青以外の色彩による表現が始められました。省略と強調部分が巧みに配され、ピカソの美が創り出されています。

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ピカソⅢ「バラ色の時代」

バラ色の時代 1905年~1907年 「造形性の探求」

青の基調から徐々に赤系統の色を使い始める。「サーカスの時代」ともいわれ、サーカスの人々(道化師・軽業師)を多く描きました。

フェルナンド・オリヴィエ 
「バラ色の時代」に向かわせた最初の恋人


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1904年、ピカソはパリのバトー・ラヴォワール(洗濯船)と呼ばれる建物にアトリエを構え、フェルナンド・オリヴィエという名前の女性と同棲を始めました。少し教養のある女性で、ピカソにフランス語を教えたり、精神的な安定を与えてひたすら絵を描くようにピカソを仕向けました。彼女と暮らすようになってから「青の時代」の表現は影を潜め、ピカソは彼女の美しい裸像や身近な人々の肖像画、彼女の仲間たち、俳優、サーカスの芸人たちを、バラ色を基調とした暖かい色で描くようになりました。「バラ色の時代」の始まりです。1906年、画商ヴォラールが大量に作品を購入してくれたおかげで、作風の転機となったスペインのゴソルへの旅行が可能になりました。オリヴィエは、次の新しい恋人エヴァが現れるまでの7年間をピカソの伴侶として過ごしました。

《玉乗りの曲芸師》1905年
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男の体がデフォルメによって大きく描かれているので(頭部を小さく前方に描いているので体がより大きく見える)、少年の身体の細さが強調されています。球体と立方体の対比がピカソの造形性への関心を示しています。背景に小さく描かれた人物や動物が作品に奥行き感を与え、牧歌的ではありますが、作品からはどこか厳しさが感じられます。赤味のある色が加えられようになりました。

《サルタンバンクの家族》1905年
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バラ色の時代を代表する大作。ピカソらしく、人物それぞれの手に表情を付けています。なぜ、家もなく観客もいない広々とした大地を背景としたのか、なぜ、誰も視線を合わせないのか、なぜ二人を後ろ向きに描いたのか幾多の解釈を呼ぶところです。道化師の衣装の菱形模様や襟元などのV字形が画面に変化をつけ、少年の服の青色と肩掛けの赤色の美しい対比が画面を引き締めています。

《パイプを持つ少年》1905年
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背景の花が作品としての装飾性を高め、“華”のある作品にしています。113億円もの高値で落札されたのもそこにあると思われます。ピカソは、不自然なパイプの持ち方や、少し歪みを感じさせる顔立ちによって、少年の屈折した心理を表現しようとしているのでしょうか。足を大きく開いて座るポーズは二等辺三角形の安定した構図を作っています。しかし、少し右に体軸を傾けさせることで不均衡さが作られ。画面にかすかな変化をつけています。上方からの光が少年を柔らかく包み込んでいます。

《二人の兄弟》1906年
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恋人フエルナンドと旅行した、スペイン、カタルーニャ高地の人里離れた村ゴソルで描いた作品。黄土色系のバラ色が多く使われており、この色が後に「バラ色の時代」の呼び名を生みました。この時期、ギリシャの古代彫刻やスペインのイベリヤ古代彫刻に関心を持ち、研究の成果としてこの作品が描かれました。造形的に完成されたギリシャ彫刻からの影響が少年のポーズとなって表れています。ピカソは自作に“堅固な造形性”を取り入れようとしたのではないでしょうか。

《がートル―ド・スタインの肖像》1906年
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図1

ピカソの才能をいち早く見抜き、早くから支援者になったアメリカ女流作家の肖像画。この作品を特徴づけているのは、仮面のように描かれた顔です。特に目は、ルーブル美術館で見たイベリア古代彫刻の影響を受けてアーモンド形で描かれています。様々なものから影響を受け、それらを次の新しい表現に結び付けていく「ピカソ芸術」の原型を、この作品に見ることができます。


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ピカソⅣ「キュビスムとは?」

キュビスム(立体派)   20世紀の大きな視覚革命

セザンヌの影響を強く受け、パブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックが、20世紀初頭(1908年~1918年)に始めた視覚上の革命的な美術表現。1908年のブラックの個展について美術評論家のルイ・ヴォークセルが「フォルム(形)を軽視して、幾何学的な図式や立方体(キューブ)に還元している」と評論したことや、アンリ・マティスがブラックの作品を見て「小さな立方体の集まり」と述べたことにキュビスムの名称の由来があります。 
                                   *キューブは立方体を表すフランス語 


キュビスムの表現法 

    一つの視点から複数の視点(同時的視覚)へ

・全く異なる角度(複数の視点)から見た物の形を一つの画面に描き出す。
・断片的にした形(平面)を、幾何学的な形に還元(単純化)して表現する

【遠近法による従来の表現法】では、一つの視点による描写のため、最高でも三面しか描けません。

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【キュビスムによる表現法】では、

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視点を移動して色々な位置から見る。そして分析する。


平面に断片化して再構成する。展開図の様な表現になります。
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図2


図1

展開図にすると全ての面が表せます。サイコロというものが何であるのかが良く分かります。

キュビスムの時代区分 表現の変化によって分けられます。

セザンヌ的キュビスム(1907年)
  ・対象を立方体を中心にした単純な形態に解体
分析的キュビスム (1909年)
  ・多視点の導入  ・対象を様々な面に分解  ・分解した面を再構成 
総合的キュビスム (1912年頃) ・コラージュ、パピエコレの導入
ロココ的キュビスム(1914年頃) ・緑色を基調とした装飾的な表現
  
キュビスムの先を行く、セザンヌの多視点による絵画

セザンヌ《果物かごのある静物》1890~1895年
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ピカソのキュビスム時代の始まりを告げる作品

「美」と「醜」の区別を打ち壊し、20世紀の美の新しい規範を創り出して大きな影響を与えました。

アヴィニョンの娘達
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1907年 244×234㎝

25歳のピカソがいかにして美術史に自らの名前を刻むのか、アヴァンギャルド(前衛芸術)の旗手としてまだ誰も見たことのない絵を描こうと、並々ならぬ意欲を持って挑んだ大作です。描かれた当初、その革新的な表現を誰も理解することができず、友人や画家仲間の間では「ピカソは気が狂った」とさえ言われました。1916年までアトリエの壁に裏返しで立て掛けられたまま置かれ、その年に題名が付けられました。題名のアヴィニョンは、スペインのバルセロナの売春宿がある街の通りの名前で、描かれている5人の裸の女性達は娼婦です。
量感を表すための影や、空間を表すための遠近法が無視され、前後感が不確かな不思議な空間が創り出されています。人物表現は、一人の人物のいくつもの姿や形が一人の人物として組み立てられ、「多視点による描写」というキュビスムの手法で表現されています。


1907年に民族博物館で見たアフリカ黒人彫刻の象徴的で抽象的な表現に感銘を受けた後、画面の右二人の女性の顔をアフリカ黒人部族の仮面のように描きました。中央の腕を上げた二人の女性は、イベリア彫刻から得たインスピレーションによってアーモンドの形をした目で描かれています。原始美術の探求と作品への応用は、「アヴィニョンの娘たち」以後も続けられ、「ニグロ時代」としてプリミティブ(素朴)な表現へと変化していきました。

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アフリカ黒人部族の仮面

視点の移動

正面から見た目と横から見た鼻を、一つの顔に同時に描いています。

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キュビスム以後の作品にも、異なる視点から見た目や鼻が同時に描かれ、ピカソ作品の特徴となっています。

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《ドラ・マールの肖像》1937年


なぜ古代芸術や原始美術に前衛芸術家たちは関心を持ったのか?


古代・原始芸術の特徴は、対象の細部を省略し幾何学的な形に単純化された抽象的な表現にあります。又、壁画など平面の表現においても、遠近法や明暗法などの三次元的表現技法で描かれていません。これらの特徴が、遠近法などに依拠しない絵画の新しい表現を追求していた20世紀初頭の前衛芸術家たちの目に止まり、彼らはまるで答えを見つけ出したかのように、そのプリミティブ(原始的・素朴)な表現を作品に取り入れていったのです。 過去において西洋近代美術に大きな影響を与えた芸術は、日本の浮世絵版画と原始美術の二つであり、ヨーロッパにおけるモダンアートの新しい展開に大きく寄与しました。


セザンヌ的キュビスム(原始的キュビスム)  セザンヌの影響 

「セザンヌこそ私のたった一人の師だった!彼は我々すべての父親のようなものだった」   ピカソの言葉

20世紀絵画はセザンヌと共に始まったと言われます。セザンヌが切り開いていった造形における新しい表現法は、後に続くモダンアートの画家たち、中でもマティスとピカソに大きな影響を与えました。「画家たちの画家」として、セザンヌの作品を進んで買ったのは画家たちであったことも、その存在の大きさを物語っています。

ピカソ《三人の女性》1908年
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セザンヌの研究によって造形性が強化されました。裸婦が「面」で捉えられて木彫りのような多面体で描かれています。女性の美しさの表現から離れて、女性という立体物をどのように平面上で造形的に表現するかが追及されています。

「面取り」による多面体表現 対象を「面」の集合と捉えています。
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ピカソⅤ「分析的キュビスム」

分析的キュビスム  形態の分析、解体、再構成。


・描く対象を様々な視点から見て分析する(視点の移動を取り入れる)
・断片的な面に解体する(立体をすべて単純に平面化する)
・解体した面を画面上で再構成する(切り子状の面の集合で表現)

1908年にブラックは、セザンヌの「自然を円筒形と球体と円錐形で捉えよ」という絵画理念や、風景を幾何学的に捉えた作品に触発され、画面が幾何学的に構成されて画面全体が立方体の集積のように見える風景画を描きました。

ジョルジュ・ブラック《レスタックの家》1908年
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ピカソ《オルタのレンガ工場》1909年 ピカソも分析的キュビスムの手法で描きました。
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オルタの町が多視点による多数の「立方体」が集まったように描かれています。それぞれの面が「片ぼかし」によって色付けされ、立体感と透明感が作り出されています。

キュビスムを特徴づける「片ぼかし」と「切り子面」

「片ぼかし」 → 輪郭線に近い部分の色を一番濃くして徐々に薄くしていく着色法。
         セザンヌが「パサージュ」と呼んで「面」を滑らかに移行させた技法。

「切り子面」 → 幾つもの面や濃淡をつけるためにカットされた切り子ガラスの表面

切子藍色船形鉢
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《リキュール酒の瓶のある静物》1909年
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画面全体が幾つもの切り子面で構成されています。酒瓶、雄鶏、ストローが入ったコップ、新聞が描かれているのですが、何が描かれているのか判別しにくい。しかし、結晶体のように様々に屈折した面が空間や物の量感を作り出しています。情感を感じさせない造形性に徹した画面構成からは、ピカソの新しい表現に突き進む気迫らしきものを感じます。

《フェルナンドの肖像》1909年
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恋人のオリヴィエの肖像と下は彫像です。陰影をつけた幾つもの面に分解され、顔面や体、花瓶が細かい切り子ガラスのような面の集合になっています。美貌の恋人を見たままに描くのではなく、頭で考えた見方、描き方で表現しています。彫刻作品は分析的キュビスムの立体への応用です。

《フェルナンデスの頭部》1909年
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キュビスムと知覚認識について  「図柄と「地づら」の関係

ルビンの杯
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黒を背景(地づら)とすると白い杯(図柄)に見え、反対に白を背景(地づら)として見ると、二人の顔(図柄)が現れます。人は「図柄」と「地づら」の関係で物や空間を認識しています。キュビスムの画面は、この関係が無くなっているので空間が複雑化しています。

ティエリの法則
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「ティエリの法則」では、線で描かれた立体の輪郭線が出っ張ったり引っ込んだり、平面に凹凸が見えます。キュビスムの作品では、幾何学的な画面を組み立てている面の稜線が複雑化され、画面に立体感や前後感が作り出されています。

【図柄と地づらの関係が無いキュビスムの空間を受け継ぐ現代美術】

アメリカの抽象表現主義の画家達が同じ空間を作り出す。

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ジャクソン・ポロック《秋のリズム》1950年

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デ・クーニング《発掘》1950年

新しい空間を作る 「見たとおりに描く」から「考えたとおりに描く」

人や物を平面に細分化し解体する。画面上で組み合わせたり重ね合わせたりして再構成される。遠近法による絵画空間とは異なる新しい空間が作り出される。

《ヴォラールの肖像》1910年
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ピカソと関わりのあった画商の肖像画。画面を切り刻むような幾本もの線が切り子状の不連続な面を作っています。背景と身体の細かく分断された面が相互に入り込んでいます。それによって、物と空間の境が曖昧になり、遠近法的な奥行き感が失われて浅い前後感だけの均一的な絵画空間が作り出されています。多視点によって「面」に分解された頭部は量塊としての存在感が出るように再構成され、光りの当たった厳めしいヴォラールの顔貌が、平坦にリズミカルに並べられた画面の中から浮かび上がってきます。

《カーン・ワイラーの肖像》1910年
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早くからキュビスムの作品を寡占的に扱った画商の肖像画です。色彩が抑えられ、細かい平面への断片化がさらに進んで、画面をいっそう複雑なものにしています。分析的キュビスムの究極的な表現に近づきつつある作品。どの部分が「図」でどこが「地づら」なのか区別できない平面性が、キュビズムと現代美術を結びつけています。

デビッド・ホックニー《画家の母親》1985年
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「フォトモンタージュ」と呼ばれる写真技法の作品です。キュビスムの表現方法と同様に様々な角度から撮った写真を貼り合わせて、「同時視覚的」な映像で母親を表現しています。

《マ・ジョリ(私の可愛い人)》1911~1912年
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形の細分化と再構成が徹底されるに従って画面から具体性が消え、抽象度が増していきました。ピカソ自身も少し不安になったのか、文字やト音記号、五線譜、カーテンの紐をそれとなく描き込んでいます。「MA JOLIE」と書かれた文字が目につきますが、フエルナンドと別れつつあったピカソが、次の恋人エヴァへ宛てた愛の言葉です。


《パイプをくわえる男》1911年
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楕円の変形キャンヴァスに描かれています。(人間の視野は四角と思われがちであるが、実は楕円である)。男の姿は画面の中に溶け込み判然としなません。キュビスムの見どころは、灰色系や茶色系の限られた色で濃淡がつけられ、画面が美しく保たれているところにあると思います。微妙に移り変わる色彩の濃淡が美しい作品です。


次回は「総合的キュビスム」です。

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