日本近代洋画の始まり明治日本は、文明開化・欧化主義のもとに、政治、経済、建築、医学などの諸制度や諸技術を西洋化していきました。美術においても、西洋文明を取り入れて西洋諸国に追いつくために1876年(明治9年)工部美術学校を設立し、外国から美術家を雇い入れて西洋美術の教育を始めました。1896年(明治29年)東京美術学校(現東京芸術大学)が新設され、開校9年後に西洋画科を設置しました。パリ留学を終えて帰国していた黒田清輝を西洋画科の教授に迎い入れ、黒田による西洋のアカデミズムを基礎とした美術教育をスタートさせました。黒田は自らも「白馬会」という洋画の研究会を結成し、それまでの暗い色彩表現の「脂(やに)派」に対抗して、明るい色彩を採り入れた外光派(「紫派」)の描き方を広めました。1907年、フランスのサロンに倣い文部省美術展(文展)が創設され、国による美術体制(美術学校・展覧会)が整えられました。
※ 「美術」 ‥‥ 明治時代にドイツ語を翻訳してできた造語。
「日本画」‥‥ 明治時代に西洋画に対して新しく作られた用語。江戸時代は「大和絵」と呼んでいました。
近代洋画の画家たち 【明治時代】 サロン絵画・印象派の移入■ 黒田 清輝 くろだ せいき(1866~1924・慶応2年~大正13) 
1884年、法律を学ぶためパリに留学しましたが、途中で画家志望に転じて官展系外光派のラファエル・コランに師事する。コランから学んだ印象派の明るい色彩を取り込んだ
外光派の描き方を持ち帰るとともに、伝統的な西欧アカデミズムを日本に移入しました。洋画家、指導者、美術行政家として近代洋画に残した足跡は大きい。
【外光派(紫派・新派)の特徴】 画面全体が明るい
光の当たるところ → 黄色系で着色
影の部分 → 黒ではなく紫色や青色を用いる
《湖畔》1897年 69×84.7 東京国立博物館 重文

青と緑を基調とした透明感のある淡い色調で描かれています。日本で、女性のもっとも美しい肖像画と言われています。明るい色彩と爽やかな空間の広がりが、新しい洋画の描き方として高い評価を得ただけでなく、油絵を日本化した作品です。女性を画面の端に寄せてクローズアップして描く描き方や、俯瞰(上からの視点)による表現は日本的な表現です。
黒田が師事したラファエル・コラン《海辺にて》1892年

【コランの描き方】
伝統的アカデミズムに印象派的な表現を取り入れた“印象派的アカデミズム”
伝統的アカデミスムのサロン絵画
ジェローム《ローマの奴隷市場》1884年
明るい色彩を取り入れた印象派 
モネ《アンティーブ》1888年
《読書》1891年

黒田清輝「智・感・情」1897~1899年 東京国立博物館 重文

右から「智」「感」「情」の題が付けられています。金地の背景に描かれた均整のとれた裸婦が、それぞれ謎のポーズをとっています。作者の黒田は「智」は理想派、「感」は印象派、「情」は写実派と、当時の画家の傾向を喩えたものであると説明していますが、現在も論議を呼んでます。絵画は写生ではなく、思想や物語的なものを表現した
「構想画」を描くものであるという西洋アカデミズムの理念を黒田が作品化しました。
【なぜ裸体画を描くことが、アカデミズムでは絵画制作の基礎なのでしょうか】フランス国王ルイ14世は、宮殿を飾る「歴史画」や「宗教画」を描かせるために芸術家を集めました。それが芸術アカデミーとして国王直属の特権的な機関となり、画家や彫刻家を養成する美術学校を作ったり、サロン(四角い部屋の意味)と呼ばれる展覧会を開くようになりました。アカデミーにおいては、絵画の種類にランク付けがなされ、歴史画・宗教画・人物画が上位に位置し、風景画や静物画は下位に置かれていました。風景画を描く印象派の画家達がサロンで評価されなかったのもこの理由によるものです。モネやルノワールは、風景画ではサロンに入選を果たすのが困難なので、人物画に変えて出品したほどです。
アカデミーによる国立美術学校(エコール・デ・ボザール)では主に歴史画、宗教画を描くための技術(人体デッサン、古代彫刻の石膏デッサンなど)が教えられていました。
歴史画 ドラローシェ《エミシクル中央の群像》1841年

歴史画は多くの人物を描く必要があります。人物を正確に描くには着衣よりまず裸体の勉強をしなければなりませんでした。

人体を正確に描かなければならない。

着衣では正確な人体が描けないから裸体で描く
【ヌードと裸体の違い】
ヌード(nude)…… 芸術形式の一つとして理想化された裸体。
裸の人体を理想美へと成形
裸体 (naked) …… 衣服がはぎ取られた状態
黒田清輝《裸婦習作》1888年
■ 原田直次郎(1863~1899年)

黒田清輝より前にドイツに留学。印象派ではなく、ヨーロッパの古典的な画法を習得し帰国。滞欧中に描いた作品です。ヨーロッパの美術館に展示されていたら、誰も日本人画家が描いたとは思わない程の優れた観察力と見事な描写力に驚かされます。
■ 和田 三造 わだ さんぞう(1883~1967年・明治16年~昭和32年)
「南風」 1907年 151.5×182. 4

第一回文展で最高賞を受賞した作品。自らの漂流体験をもとにして描きました。強い陽光や風を見る者に感じさせ、明るい光を浴び、強い風に向かう堂々とした男性の裸体が印象的です。男性の英雄的な表現と日露戦争に勝利した国民の高揚した気分とが呼応して、広く支持された作品です。
■ 青木 繁 あおき しげる(1882~1911年・明治44年) 29歳没
明治ロマン主義を代表する洋画家
東京美術学校西洋画に入学し黒田清輝に学びました。古事記など日本の古代神話に題材を求め、神話的世界を豊かな想像力と正確なデッサン力で描き出しました。22歳で大作《海の幸》を描きますが、この時期が青木の絶頂期で、以後は精彩を欠きます。故郷の久留米に戻った後は放浪生活に入り、28歳の若さで亡くなりました。西洋美術の模倣ではない独自の表現は高く評価されています。
「海の幸」 1904年 (明治37年) 22歳 70.2×182 ブリヂストン美術館 重文


友人や恋人と旅行した千葉県館山市の布良海岸で制作されました。漁師たちが水揚げする実際の光景に、自分の内に抱く古代の世界(ビジョン)を重ね合わせて表現しました。画面の両端に描かれた人物が、明確に描かれていないので(未完)、右端から時空を超えて群像が現れ、再び左端に消えていくようです。
画面中央に描かれこちらを向く女性の顔は、恋人の福田たねの顔です。展覧会出品後に青木が手を入れ描き直しました。一人だけこちらを見ているので鑑賞者と目線が合い、画面に鑑賞者を引き入れます。それがこの作品を単なる群像画で終わらせてはいないところです。細部に拘らない大胆さ、適確な人体デッサン、人体の細やかな彩色は見どころの一つだと思います。
【ロマン主義(浪漫主義)とは】
・異境や過去にユートピアを求め、個性・空想・形式の自由を強調する。
・理性的、合理的なものよりも情緒的なもの、変化するもの、目に見えないものや人智を超えたものに
愛着を寄せる。
【青木繁が影響を受けたラファエル前派とは】
・1848年イギリスで結成された芸術家の集団。宗教的な主題、神話、寓意、文学、教訓を作品に
盛り込みました。
・迫真的な写実表現で夢や幻想、ロマンが融合した世界を描きました。
・多様な色彩描写、繊細な線描表現で意識的に古典的な表現をしました。
ラファエル前派 ミレイ《オフィーリア》1855年

青木繁《わだつみいろこの宮》1907年
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テーマ:アート - ジャンル:学問・文化・芸術
大正時代の洋画家達個性的な表現が何よりも尊重された時代
フォーヴィスム(野獣派)・ドイツ表現主義・キュビスム(立体派)・抽象絵画が紹介される
■ 中村 彝 なかむら つね (1887年~1924年)37歳没
12歳で父母を失います。軍人を志しますが17歳の時に結核にかかり断念します。19歳の時、洋画家を志し美術研究所に通い絵画の勉強を始めました。1907年に新宿駅前に開店したパン屋の「中村屋」の裏の木造アトリエを借りて制作するようになりました。レンブラント、ゴッホ、ルノワール、セザンヌなど西洋美術の画家たちから影響を受けつつ、病気と闘いながらも、独自の澄んだ精神性の高い画風を確立しました。37歳の若さで、誰にも気づかれぬまま喀血による窒息で亡くなりました。自分の命を賭けて最後まで絵を描き続けた画家です。
《麦わら帽子の自画像》1911年

《エロシェンコ氏の肖像》1920年(大正9年)45.5×42cm 東京国立近代美術館 重文
近代日本の肖像画の傑作ロシア人の盲目の詩人エロシェンコがモデル。深く傾到したルノワールのような軽く柔らかなタッチで、モデルの面影と穏やかな雰囲気を画面に描きだしています。中村彝の描き方と盲目の詩人の内に秘めた精神性がマッチし、内面的なものを感じさせる肖像画だと思います。中村彝の“心の内”が投影された、いわば彼の自画像とも言える作品です。
ルノワール《麦わら帽子の女》1915年

《髑髏を持てる自画像》1923年(大正12年)100×69cm 大原美術館

この作品は亡くなる前年に描かれました。この頃、死を予感したかのように、髑髏を題材とした絵を描いています。
少し縦に伸びた身体描写は、形態を歪めて描くマニエリスムの画家エル・グレコに通じ、グレコ同様に宗教的な世界を感じさせます。諦めと悟りが同居する彝の心中が、静かな表情となって表れています。病床につく日が多くなる中で描いた作品です。直線や円弧など幾何学な要素を取り入れた表現は、どこかキュビスム的であり、再現性より造形性を強めた表現となっていると思います。
エル・グレコ《悔悛する聖ペテロ》1600年
■ 関根 正二 せきね しょうじ(1899~1919年) 20歳没
20歳で夭折した天才画家
《自画像》

ほぼ独学で絵画を学びました。画家としての活動期間は短く、大正4年から8年までの僅か5年間でした。絵の具も満足に買えぬ貧困のなか肺結核を患い、自らを追い詰めていくような生活をしつつ、純粋で幻想的な祈りの世界を描きました。
《信仰の悲しみ》
『朝夕孤独の寂しさを何者かに祈る時、ああした女が三人又五人、私の目の前に現れるのです』
1918年(大正7年)73×115 大原美術館 重文

関根の幻覚(幻視)によって描かれた作品です。暗い灰緑色の空の下、透き通った衣装を身に着けた五人の女が、手に赤い果物を捧げ持ち荒涼とした野原を歩いています。題名とどう結び付くのか、謎の多い絵だと思います。
関根は中央の女に使われている
朱色(ヴァーミリオン)を好んで使いました。一人だけに塗られた朱色が、この作品の要になり幻想性を高めていると思います。
《子供》1919年
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最近の研究では、正二の弟の「たけお」を描いたとされています。
関根の色である朱色と背景の青色の強いコントラストが美しく、作品の見どころとなっています。
頬を赤くして無心に前を見つめる表情から、少年の無垢さが伝わってきます。少年を描く線はあくまでも柔らかい。
■ 村山 槐多 むらやま かいた(1896年~1919年)23歳没
デカダンス(退廃)とともに生きた夭折の天才画家《自画像》1917年

早熟な少年として早くから文芸に関心を示し、十代の頃より、詩、小説、戯曲を作りました。中学を卒業すると画家を志し美術研究所に通います。展覧会で賞を貰うも、放浪と転居を繰り返し、貧困を極めた生活は退廃的で病にも蝕まれていきました。芸術と生きることのギャップに悩みつつ、張り詰めた思いを美術様式に拘らず直情的に描きました。アカデミズムから離れたプリミティブな表現ではありますが、直截的な表現は色褪せることはありません。
《尿(いばり)をする裸僧 1915年

自己を極力抑え、正確な表現が求められるアカデミックな絵画の世界では決して描かれることはない作品です。
それにしても、巧拙を超えた強烈な表現だと思います。赤く発光し合掌しながら放尿する裸僧に、観る者は心を大きく揺さぶられます。内から沸き起こる情念が、強い力で押し出されたように表現され、「自分の描きたいものを強く描くんだ」と言う村山槐多の強い表現欲が、全てに優先された最も村山らしい作品だと思います。ウソのない本当の絵の世界を求める求道者としての画家の姿が感じられます。
裸僧は全てを捨てて芸術に捧げる村山自身の姿で、美に対する熱き思いが炎となって全身から立ち上っているように感じられます。
《強烈な色彩、大胆な筆致、深い陰影表現、巧拙を超えた表現が、強く激しい村山独自の世界を作り出す》《カンナと少女》1915年

《信州風景》1917年

《庭園の少女》1914年

《のらくら者》1916年
■ 萬 鉄五郎 よろず てつごろう(1885年~1927年)42歳没
日本前衛美術の先駆者 後期印象派、フォーヴィスム、キュビスムなどヨーロッの近代美術のスタイルをいち早く取り入れた作品を描き、日本における反アカデミックな前衛絵画の流れを作り出しました。明治末年から大正期の絵画史をたどろうとする時、欠かすことのできない作品を残した画家です。
《赤い目の自画像》1912・1913年

対象をいくつもの面の集まりとして捉え、幾何学的に表現するキュビスム的な表現と、対象の色に捉われない自由な色彩で描くフォーヴィスム的な表現が合わさり、観る者に強烈な印象を与える過激な自画像です。
鋭い直線が交差して作り出す鋭角的な表現は、社会や個人の不安を描いたドイツ表現主義を感じさせる。モダンアートの様々な表現を試み、新しい絵画を切り開いていこうとする画家の姿が窺えます。
赤色の持つ色彩力が存分に生かされた作品です。
《裸体美人》1911年

東京美術学校の卒業制作に提出され、黒田清輝らを困惑させた。草原にはゴッホ、裸婦と赤い腰布にはマティスやゴーギャンを見出すことができます。強裂な赤と緑色の色彩対比、強いタッチ、想像による背景などの表現は、表現の自由、個性の尊重が叫ばれるようになった大正時代を象徴しています。
ゴッホの草原の表現

マティスのオダリスク

ゴーギャンのタヒチの女

《もたれて立つ人》1917年 162.5×112.5cm 東京国立近代美術館

対象を幾何学的な形体に還元して描く、初期キュビスムの手法を萬が取り入れて描いた作品。裸婦が、直線や円などの幾何形体で表され、片ぼかしによって量感が描き出されています。
日本人が最初に描いたキュビスム作品で、記念碑的な作品。動的な画面構成や形の面白さ、深みのある裸婦の赤色の美しさが見どころだと思います。
ピカソ《マンドリンを弾く女》1909年
■ 岸田劉生 きしだ りゅうせい(1891年~1929年)38歳没写実的描写によって、その物に深く内在する「内なる美」を探究。

黒田清輝の主宰する白馬会で外光派を学びますが、雑誌「白樺派」を通じて、ゴッホ、セザンヌなどの後期印象派に傾倒していきます。その後、北方ルネサンスのデューラーに影響を受けて写実描写による古典的な美求めていきました。三年程でその感化を脱し、物の奥に宿る深い神秘感である「内なる美」の探求を始め「在るという事の不思議な神秘」を絵画化しようとしました。自我の拡充と個性が尊重された、大正時代を代表する画家。
「切通しの写生」1915年 56×53 東京国立近代美術館 重文

「直に自然の質量そのものにぶつかってみたい要求」によって描いたと劉生が語るように、石塀や土、草、小石、樹木の一つ一つが克明に描写され、その存在を強く感じさせます。
石壁と土壁面の対比、道路がせり上がるような、あるいは逆に、手前になだれ込むように感じさせる大胆な構図は、単調になりがちな画面に活力を与えているとおもいます。
道に映る二筋の木の影が、デコボコした感じや陽光の強さを強調し、写実性を高めて表現上重要な位置を占めています。
《静物(缶・スプーン・茶碗・林檎)》1920年

劉生は静物画によって、その奥に宿る深い神秘感「内なる美」を捉えることを知り、ものが存在するということの神秘性を写実による静物画で描き出そうとしました。本当に静かな画面です。
描かれた果物、陶器、金属、木などのリアルな質感表現は鋭く、驚異的ですらあり、それがこの作品の見どころになっています。
スプーンがモチーフとモチーフをつなぎ、画面が二つに分かれるのを防いでいます。構図に劉生の苦心が感じられる作品だと思います。
《麗子五歳の図》1918年

麗子を描いた油絵の中で、最初に描かれた作品。デューラーの影響が濃く感じられます。
デューラーに倣い、細密描写によって存在そのものを描き出し、深い美を探り出そうとした作品だと思います。
デューラー《自画像》1500年

《麗子微笑》1921年

微かな微笑みはダヴィンチの「モナ・リザ」が意識されていると思います。背景の暗さが、麗子を浮かび上がらせ、作品に神秘感を感じさせています。肩掛けの毛糸の質感が見どころだと思います。
テーマ:アート - ジャンル:学問・文化・芸術
明治、大正時代における、西洋絵画の到来と受容
【黒田清輝の功績】日本に西洋絵画を普及させるという「国益」を考えていました。(古典的なアカデミズムの教育システムによって画家を養成しました。)裸体画、アカデミズムによる歴史画、構想画を日本に導入し、フランスにおける絵画の新傾向を日本に紹介しました。日本独自の油絵の創出を試み、アカデミズムと前衛を一人で演じました。
【印象派はどのように日本に伝えられたのか】黒田や久米桂一郎は、フランスから印象派の作品を持ち帰らず、帰国してから印象派の描き方を見本として描きました。
モネの作品は日本人が購入して日本に持ち込まれましたが、公開されることはありませんでした。
(日本の画家で、ルノワールに師事する者はいてもモネに師事する者はいなかった)
印象派は、作品や理論より先に、黒田と久米によって“模擬的な作品”によって紹介されました。
【「白樺派」による後期印象派の紹介】1910年に武者小路実篤らによって発刊された文芸誌「白樺」によって、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌたちの後期印象派の画家の作品と、ルノワール、彫刻家のロダンの作品が紹介され、後期印象派の作品が親しめるようになりました。
後期印象派‥‥ 印象派の描き方から出発して、印象派の自然主義的な描き方に満足せず、画家の内にある
内面的なものを描いたり造形性を高めることで、 印象派を乗り越えようとした画家たちをいいます。
ルノワール‥‥‥ 印象派の画家と呼べるのは初期の頃だけで、1880年代になると 印象派の描き方から離れ、
80年代の後半からは「ルノワール様式」と呼ばれる柔らかなタッチで描くようになりました。
【西洋絵画の展覧会の開催と、個人コレクターによる収集と美術館の設立】191年(大正7年)から23年(大正12年)の間に西洋絵画の収集がブームになりました。
日本で最初の大規模な西洋絵画(フランス近代絵画)の展覧会が1920年・22年に開催され、印象派、後期印象派の作品が大挙到来しました。
そして、松方幸次郎、大原孫三郎らによって西洋絵画の大規模な収集が始められ、松方コレクション(国立西洋美術館)、大原コレクション(大原美術館)、石橋正二郎コレクション(ブリヂストン美術館)は、美術館の設立に向かいました。
【短期間に伝えられたヨーロッパの新しい美術様式(モダンアート)】
ヨーロッパの美術様式は明治末から大正期にかけて一度に伝えられました。
・印象派 (モネ・ルノワール)
・後期印象派 (ゴッホ・ゴーギャン・セザンヌ)
・フォーヴィスム(マティス・ドラン・ブラマンク)
・キュビスム(ピカソ・ブラック)
・抽象絵画(カンディンスキー・モンドリアン)
「日本の近代美術」では、フォーヴィスムに影響を受けた画家が多いのが特徴です。
昭和前期の洋画家・Ⅰ■ 梅原龍三郎うめはら りゅうざぶろう (1888~1986年・明治21年~昭和61年)
天性の色彩画家。華麗な色彩による装飾的表現で「日本的な油彩画」を創出しました。_convert_20100616172823.jpg)
北京で制作中の梅原

「雲中天壇」1939年
明治41年に渡仏。ルノワールの作品に感銘しすぐさま師事をしました。
印象派、フォーヴィスム、ポンペイの壁画に影響を受け、帰国後は、南画(文人画)や琳派など、日本の伝統美術に感化され、華麗な色彩と大胆で自在なフォルム(形)による独自の装飾的な様式を作り出しました。
《裸婦扇》1938年

フランスから帰国後は、“脱ルノワール”を模索する時代が続きました。琳派の装飾性を吸収することにより、赤い輪郭線の裸婦や緑の寝台、背後の扇ちらしの屏風など、様々な色彩が溶け合った装飾的な表現となっています。日本的な油彩画を目指した初期の試みです。裸婦や寝台を描く柔らかな線は、南画・文人画の影響と思われます。
どこか日本的な洒脱さを感じる画風です。
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《紫禁城》1940年

戦時下の緊迫した時代に北京に滞在し、定宿とした北京飯店の五階の窓から眺めた広く美しい紫禁城を描いた作品。
1939年から43年までの5年間で6回も北京を訪れました。多くの傑作が描かれたこの時代を「北京時代」と呼び、梅原の生涯を通じて一番充実していた時代と言われています。
「北京時代」を代表する作品の一枚。赤色と緑色の強い色彩対比と柔らかな線による形態描写が作品を際立たせています。「美しいという感動をいかに強く、自分独自の描き方で描けるか」に画家の真価が問われるところです。
【梅原様式】としてそれに見事に答えています。
《薔薇》1947年

《裸婦》1969年
明るい色彩表現と装飾性。デフォルメによって強調された形の面白さ、とりわけルノワール同様、梅原の色彩である朱色(バーミリオン)が作り出すビビットな感じや朱色の持つ温かみを味わう。
■ 安井曾太郎やすい そうたろう(1888~1955年・明治21年~昭和30年)
「金蓉」を制作中の安井曾太郎

1907年に渡仏する。セザンヌに傾倒し研究を重ねました。1914年の帰国後、セザンヌ様式では日本の風土や文化を描くことができず、十数年間制作不調に陥りますが、形態の大胆なデフォルメ(変形)、水彩画を思わせる滑らかな彩色、白色が多用された明るく浮き立つ画面を作り出し「安井スタイル」を確立しました。梅原と共に日本近代洋画の一時代をきました。
作品の特徴は、デフォルメと白色を多用した明るく平明な画面《金蓉》1934年

単にものを写すだけの写実ではない新しい写実を目指した安井の代表作です。
端的で柔らかな線が婦人を描き出しています。顔、胸、腰、脚の向きが夫々に異なる複雑な人体構成法で描かれて
いますが、ゆったりとした感じがします。造形的な構築性を高めるために多視点で描かれています。セザンヌの研究が生かされている作品です。
「写真のように引き写したところの絵には生命がない」 ‥‥‥ 安井の言葉
描く対象(人物・風景・静物など)を自分の中でこしらえ直して描く
《婦人像》1930年

婦人、椅子、床、壁が異なった角度で描かれていて、それが安定した構図の中に動きを作り出しています。下のセザンヌの作品と同様な絵画的な空間構造で描かれています。
婦人の身体のプロポーションが変えられて印象を強めています。着物と帯の柄が作品の見せ場となり目を引きよせます。白い足袋が婦人を浮き上がらせ、その存在感を強めていると思います。
セザンヌ「キューピットのある静物」1894年

《薔薇》1932年
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■ 佐伯祐三 さえき ゆうぞう (1898~1928年・明治34年~昭和3年)日本人にパリのイメージを決定づけた「パリの画家」
《立てる自画像》1925年

1924年に渡仏、
フォーヴィスムの画家ヴラマンクに教示を受け、アカデミズムから離れた新しい表現に向かいました。1926年一時帰国しますが、日本での制作に行き詰まり27年再渡仏します。画中に描き込まれた壁に貼られたポスターの文字が、佐伯の作品を特徴づけています。30歳で亡くなるまでパリを繰り返し描き続けました。
教示を受けたヴラマンクの作品

《コルドヌリ(靴屋)》1925年

店先に吊るしたり積み上げられたりした靴が、壁の文字と共に画面のアクセントとなり作品を面白くしています。
壁の白と黒の入り口や窓とのコントラストが、この作品を魅力的にに仕立てていると思います。
《レ・ジュ・ド・ノエル》1925年

玩具店を正面から描いています。油絵の具によるマティエール(画肌)がそのまま建物の壁の質感となっているの
が見どころで、佐伯の魅力だと思います。
《サン・タンヌ教会》1928年

佐伯が影響を受けたのはブラマンクだけではなく、下町を描くユトリロからも大きな影響を受けています。白い絵の具が多く使われ、遠近法に拘らない動きのある作品になっています。
ユトリロ《コタン小路》1911年

《ガス灯と広告》1927年

再びパリに戻った佐伯は、石壁に貼られたポスターに魅せられていきました。細く鋭く踊るような書き文字が画面を
占め、重厚な表現の中に軽やかさを作り出しています。線が加わったことで作品としての豊かさが獲得されたのだと思います。
《ロシアの少女》1928年

亡くなる年に描かれました。素早く大胆に動く筆の音が聞こえてきそうな作品です。多彩な衣装をさらに映えさせる色として、背景に黄色が選ばれています。少女を囲む黒い線が、最後の力を振り絞るかのように力強く引かれ作品に力を与えていると思います。油絵の具によるマチエール(画肌)、平面的な表現もこの作品の見どころだと思います。
部分

《郵便配達夫》1928年

亡くなる少し前に描かれた作品でです。斜めに描かれた配達夫を支えるように、左上に文字入りのポスターが画面のバランスをとっています。まるで切り抜いて貼り付けたかのような厚みのない人物表現は、アカデミックな表現をよしとしなかった佐伯ならではの造形性が優先された描き方と言えます。配達夫の帽子、肩、膝が作り出す階段状の形態は作品の造形性を高め、この絵を古びさせないと思います。
テーマ:アート - ジャンル:学問・文化・芸術
■ 長谷川 利行 はせがわ としゆき(1891~1940年・明治24年~昭和15年)
住む家も無く簡易宿泊所で寝泊まりをする。街を放浪しながら、自由奔放なタッチと色彩で素早く対象を描き出す。
昨日も無く明日も無く、今だけを生き、そして描いた漂泊の画家。
「20歳の頃の長谷川」

「快楽は人生の関門なり、悲哀もまた人生の関門なり」 16歳の長谷川の言葉
京都府生まれ。中学時代から詩や短歌を創作し独学で絵を学びます。1921年頃上京し公募展に出品します。東京下町の風景、繁華街にある酒場・カフェなどの情景、人物を自由奔放で力強い筆致と色彩で素早く捉え、生き生きと描き出しました。
27年に「二科展」、28年には「1930年協会展」で受賞します。住む家も無く住居を転々とし、40歳を過ぎたあたりから酒に溺れ、浅草や新宿の下町を泥酔徘徊する日々を送るようになりました。飲み屋では、煙草の箱の裏に絵を描いて飲み代や宿代を稼いだりしていました。1940年、行き倒れ人として保護され、東京市立板橋養護院で誰にもみとられずに49歳で亡くなりました。
【描き方・作品の特徴】リアルさを問題にしない。強く感じたままを直感的に描くパレットを使わず、チューブから直接キャンバス上に絵の具を絞り出し、指やヘラで素早く描いています。
対象の色や線に拘らず
「自分の色」「自分の 線」「自分の世界」で描いています。
“絵画としての面白さ”を描き出す奔放な線と色彩、そして垣間見える白色の美しさが見どころだと思います。
「タンク街道」1930年

「大島の海」1937年

風景を瞬時に、自由な色と線に置き換えて表現してしまう才能に引きつけられます。現実の風景に負けない、長谷川の絵画の世界にしか存在しない風景が描かれていると思います。
《ノアノアの女》1937年


《二人の活弁の男》1932年

《パンジー》1938年

《青布の裸婦》1937年


描く対象の特徴や雰囲気を瞬時に捉えて一気に描いている、速描きです。モデルに似る似ないは問題ではなく、自分が感じたものがボヤケないうちに少しでも早く描きとめたかったのではないでしょうか。生き物のような絵の具、そして、絵の具と絵の具の間の白色が、線と色を一層際立させ響き合わせていると思います。1930年代当時の日本で、長谷川一人だけが描きえた世界だと思います。
49歳 行き倒れ人で保護された養護院にて
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