
今回はジャスパー・ジョーンズについてご紹介します。
【ネオ・ダダとは】
第二次世界大戦後のアメリカ美術を代表する抽象表現主義が盛期を迎えていた1950年代中頃、卑俗な日常的なイメージやありふれた既製品・日用品を素材として作品に取り込み、立体物と絵画的な表現を組み合わせた作品をジャスパー・ジョーンズとロバート・ラウシェンバーグが制作し始めました。そんな彼らの作品に対して美術評論家のハロルド・ローゼンバーグは、第一次世界大戦半ば(1915年)ヨーロッパで生まれ、既成の秩序や芸術を否定し激しく攻撃、破壊をした反逆的な芸術運動のダダイズムの非芸術的な事物や大衆的イメージを作品に取り込む表現と類似していることから「ネオ・ダダ」と名付けました。
【ネオ・ダダが生まれた背景】
難解な芸術的表現になり過ぎた抽象表現主義からの脱却
ジャクソン・ポロック、デ・クーニングを始めとするアクションペインティングと、マーク・ロスコ、バーネット・ニューマンらのカラー・フィールド・ペインティングに分けられる抽象表現主義は、絵画の純粋性や精神の至高性、崇高さの表現を信条としていました。その結果、「芸術のための芸術」といった芸術至上主義的な傾向が強くなり、抽象的な私的表現ということもあって、一般観衆にとっては何が描かれているのか分かりづらい作品が描かれるようになりました。
ジョーンズやラウシェンバーグなどネオ・ダダの若い芸術家たちは、当時美術界を席巻していた抽象表現主義を高踏的で、あまりにも主観的な情感表現の美術と捉え、少し押しつけがましささえ感じていました。そこで抽象表現主義を土台にして、日常生活や大衆文化にテーマを求め、絵画を日常の場と結びつけて誰もが見慣れて知っている物や事で分かり易く表現しようとしました。
ジャスパー・ジョーンズ
1930年~ アメリカ・ジョージア州に生まれる。
抽象表現主義以後のアメリカ現代美術を牽引し、戦後の最も重要な芸術家の一人に数えられます。抽象表現主義の芸術至上主義的な表現に反発して、1954年、ありきたりの誰もが見慣れた記号やシンボル(旗、標的、数字、アルファベットを)を題材にした絵画の制作に取りかかりました。そして、58年にニューヨークのレオ・キャステリギャラリーで初の個展を開きます。ニューヨークの美術界に衝撃を与えた版画を含め初期から晩年の作品に至るまで、ジョーンズが現代美術に及ぼした影響はとても大きいのです。
絵それとも旗?
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《旗》1954~1955年 107.3×153.8cm
【厚みも奥行きも無い二次元の国旗を二次元のキャンバスに描く】
星条旗という現実を画面に移すことによって、絵画を現実の物にしてしまう。つまり、星条旗という現実と一致する絵画を描いたのです。絵画も日常の事物と等価であることを表現。
いかなる感性や観念の表明でもない物としての絵画なのです。
【モダンアートが追求してきた絵画固有の「平面性」の徹底化】
厚みも奥行きも無い二次元の国旗を二次元の画面に描く(平面に平面を描く)ことは、遠近法などのイリュージョン(それらしく見せること。だまし)が排除され、絵画の平面性が徹底されます。
誰もが見慣れた記号・シンボルを描く~それ以外に何も表さない絵画
《標的と石膏》1955年

石膏で型取りされた鼻や耳などの人体部分が、標的上部にはめ込まれています。作品に彫刻的な要素が加わり、物としての絵画の性格が強められています。
《地図》1961年

蜜蝋(みつろう・ワックス)で描く―「エンコスティック技法」による絵画制作 【ジョーンズの作品を特徴づける絵画技法】
ジョーンズは油彩ではなく、美術史上最古の絵画技法と言われる蜜蝋(蜜蜂の巣から作る蝋。耐光、耐水性、耐酸性に優れる)を使ったエンコスティック技法によって「旗」「標的」「数字」「地図」を制作しました。
キャンバスに新聞紙などをコラージュ(貼り付け)し、その上に顔料を混ぜた蜜蝋を塗り重ねていく。地となった新聞の文字が薄く透き通って見えます。
速乾性がある蜜蝋は、画面に滑らかな凹凸を作り出します。
《旗》部分

《ある男が噛んだ絵》1961年

痕跡のアート
作品に日用品やオブジェを取り入れる
《愚者の家》1961年

ブロンズ彫刻―芸術とは無縁の日用品を“芸術品”に変える
《電球》1958年

《塗られたブロンズ・エール缶》1960年

《高校時代》1964年

それまでに描いた絵画や彫刻を版画化する
《サヴァリン》1978年

《Figure 7》1969年

自作からの引用 かって描いた作品のモティーフ(題材)を組み合わせる
《春》1986年

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