1941年に手術を受けたとき、看病してくれたドミニコ会の修道女たちに感謝の意を表したいと、礼拝堂のデザインを思いつくものの、実現はしませんでした。
術後も長引く病気に悩まされていたマティスは、モニク・ブルジョワという一人の看護婦に出会います。彼女は心身ともに弱っていたマティスを励まし、また創作活動の中心となっていた素描と切り紙絵制作の手助けをしていました。
しばらくして二人の音信はまばらになってしまいますが、1946年、看護修道女として名前をジャック・マリーと変えて、マティスの近くに越してきます。再び交流が始まり、彼女はロザリオ礼拝堂再建の為に、修道会とマティスの仲介役として貢献したのです。1947年に再建が決定され、礼拝堂すべての装飾がマティスに一任され、全面的に協力することとになりました。
正式名称は、ドミンゴ会修道院ロザリオ礼拝堂。マティスは1948年から1951年まで礼拝堂
の設計の全工程にかかわる。内外装から聖職者の祭服に至るまで全てのデザインを手掛けました。
「4年間かかりきりの、たゆまぬ仕事をすることが必要でした。これは私の全生涯にわたる活動の結果です。まったく不完全な出来であるとしても、私はこれを自分の傑作と考えます。これは私にとって、制作に捧げられた一生の到達点です」 マティス
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青いデザインが施された屋根の建物が礼拝堂
礼拝堂

光と色彩、素描、そして彫刻を建築の中で統合し、安息の場を作り出す
マティスデザインの12mの尖塔
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聖母や聖ドミニコの顔は最大限の単純化によって、楕円形で表わされています。
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ヴィヴィットなデザインの上祭服
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ホテル・レジナの部屋で寝たまま制作しました。

至高の光を求めて~ステンドグラスの制作
切り紙絵のデザインを応用する。絵画制作と同様に、何十回と習作を繰り返して完成。ガラスを通った光が建物と調和して美しく映えています。

《生命の木》の前のマティス
この礼拝堂は彼の制作活動の集大成に他なりません。切り紙の手法はステンドグラスや上祭服の制作に、素描や挿絵の経験は壁画に、彫刻の経験は燭台や鐘楼に生かされています。またステンドグラスのモティーフである植物は、油絵に見られた装飾的要素を思い起こさせます。
生涯を通した芸術活動において、「調和」というものを絶えず追求してきたマティスにとって、ロザリオ礼拝堂こそが到達点であったと考えられます。デッサン、色彩、構図などの要素がそれぞれの特性を弱めることなくいかに一つの総合として結びつけるか、また彼が取り組んできた表現手段の総合という点でも「調和」が実現されているのです。
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