
「私は、一個のリンゴで、パリを仰天させてやりたいのだ」
「自然を円筒形と球形と円錐形に扱いなさい」
セザンヌの言葉
ルネサンスからの遠近法・陰影法をなくし、独自の画法によって、誰よりも早く新しい空間を創り上げた画家。現実の空間に存在する物(風景)を幾何学のフォルムとして捉え、それを平面上(キャンバス)で再構築させました。この方法は、キュビズムのピカソたちにも、多大な影響を与えました。また「画家達の画家」と言われ、セザンヌの作品を進んで購入したのは画家達(ゴーギャン・モネ・ドガ・マティス・シニャック・ピサロ・ピカソ・ブラック・ヘンリー・ムーア)でした。そして、大切に長く手元に置かれました。
「セザンヌこそ、私のたった一人の師だった!彼は我々すべての父親のようなものだった」 ピカソの言葉
【初期の作風】
1862年パリに落ち着き、1863年からルーブル美術館で模写を始めます。主題として、静物・肖像・風景を描く一方で、「死体解剖」「誘拐」「酒宴」など激しい暴力的な光景や、死をテーマにした作品など色んなジャンルに取り組みました。
《ドミニク叔父さん》1866年

1860年(21歳)から、母方の叔父ドミニクの肖像画を9枚描いていて、その中の代表作。
陰影法が見られます。絵具をパレットナイフで力強く塗り重ねています。
強い筆触の塗り重ねは、初期の作品に見られる描法で、エネルギッシュな存在感があります。
《ドミニク叔父さん・部分》1966年

《タンホイザー序曲》1869年

音楽が好きだったセザンヌは、友人たちと「愉快な奴ら」というバンドを組み、彼自身はコルネットを吹いていました。
ワグナーの信奉者だったセザンヌは、この作品に「タンホイザー序曲」と名付けました。ピアノを弾いているのは妹のマリーでしょうか。
多くの直角のモチーフ(手前の肘掛椅子、母親らしき女性が座るソファ、ピアノ、椅子そしてピアニストの腕)を、画面に対して平行か直角に配置されています。その固い構図を、落ち着いた色調が和らげています。ピアノ、ソファの木枠、カーペットの縞柄に使われた黒色が、白いドレスを際立たたせています。
【ピサロとの出会い(印象派時代)】
戸外の画家となったセザンヌ
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ピサロとの出会いは、1861年セザンヌ21歳の頃パリのアカデミーで。親交を続ける中、1870年代に入ると、若い画家達が新しい絵画を求めて動き始めていました。ポントワーズで、ピサロとキャンバスを並べ、印象主義の技法を学んだセザンヌの絵は、それまでの重厚で暗い色調から、明るく軽やかな作風へと変わっていきました。
《ジャ・ド・ブファン》1876年

「ジャ・ド・ブファン」は銀行家だった父が購入した別荘。
1860年代の作品に見られた厚く塗り重ねられた筆触は無く、明るく軽やかな筆遣いが感じられます。
川面に反射する輝く外光はまぶしく、さわやかな空気感も伝わってきます。
モネが描いたセーヌの川面を思い起こさせる作品です。
モネ《アルジャントゥイユのヨットレース》1872年

【印象派への不満】
《マンシーの橋》1879年 印象派時代に終わりを告げる作品

「ジャ・ド・ブファン」に比べて、この水面には光の揺らめきはありません。水面に映り込む対象も、きちっとした形態として捉えています。
1880年前後に差し掛かると、印象派の「外光の中の自然、感覚的な現象だけを描く」ことに満足できなくなっていきます。印象派が物の形を無くしていったことに不満を感じて行ったのです。自然の存在感を描くには、表情によってではなく、形態をしっかり捉え、しっかりした構図で描かなければならないと感じたのです。
印象派の明るさを保ちながら、しっかりとした構成で、
「私は印象主義から、何か美術館の作品のように堅固で 永続的なものを作りたい」と願いました。
この古典的画家のような考え方のセザンヌが、なぜ「近代美術の父」となったのでしょう‥
セザンヌは、三次元の立体物を、その奥行きや量感を無くさないまま、二次元の平面(キャンバス)に再現するのに、遠近法(透視図法)・陰影法に頼らなかったのです。
ここが古典的画法とは異なるポイントです。
次回は、「セザンヌの新しい表現方法について」です。
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