エドゥアール・マネ《青い目のブロンドの女性》1877年 パステル 60×50cm

美しい作品です。マネは若くて美しい女性を好んで描きましたが、この女性はベルト・モリゾではない事は確かです。モリゾは、1874年にマネの弟と結婚してからマネのモデルになったことはありませんでした。そして何よりもこの女性は美しいブルーの目、とても魅力的な力のあるブルーの目です。
パステルの効果で、柔らかく発光しているような首からブラウスの中に見え隠れする青いライン・タッチが綺麗です。そして右下隅に置かれた反対色の黄色が、微妙なブルー系で描かれた背景も含めて画面全体を引き締めています。そう、忘れてならないのは、全体の絶妙のバランスを保っている彼女のおくれ毛だ。
スタイリッシュな青
エリザベス・ペイトン《Martin Creed》1999年 板に油彩 27.9×35.5cm

青いシャツが目に飛び込んで来る。ボトルの飲み物(黄色)がより一層鮮やかに引き立てている。飲み物の、少なからず多からずの量がベスト。ボトルの向こうの青が、パズルのように組み込まれていて面白い。そして、彼の青い目にくぎ付けとなって、目線の先にイマジネーションを膨らませる。右目と左目の力のバランスがわずかに違って焦点が合っていない。彼は心の奥深くを見つめているのか、それとも無の境地か。
大胆で流れるような特徴のある筆遣いは、一目で彼女の作品と分かる個性。そして私達を引きこむ雰囲気が彼女の作品の魅力だ。
エリザベス・ペイトン(1965~ アメリカコネチカット州出身)
新しい具象(new figurative)を描く女性画家、現代のアメリカを代表する肖像画家です。
彼女を一躍有名にしたのは、ニューヨークのチェルシー・ホテル828号室でナポレオンやマリー・アントワネットなどの歴史的人物を描いたシリーズの個展でした。

その後も、友人たちはもちろんのこと、ミュージシャン・映画スター・皇室など世界の有名人を本や雑誌の写真、あるいは自分で撮影した写真をベースに描き続けています。
「自分の作品で何かを伝えたいと考えたことはない。ただ美しいと感じたこと・瞬間を描いているだけ」と言っているように、彼女は留めておけない美しさを遺さずにはいられない衝動で描いているような気がします。彼女の作品は、色彩の美しさ・タッチの美しさが作り出す雰囲気が魅力的です。
エリザベス・ペイトン《September(Ben)》2001年 30.8×23.2cm 油彩

ゴッホの青
エリザベス・ペイトンの「Martin Creed」から遡ること110年、ゴッホは同じ青色と黄色の補色遣いで、画家生活を締めくくる作品(絶筆ではない)を描いています。
「カラスのいる麦畑」です。
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ《カラスのいる麦畑》1890年 50×103cm 油彩

古典絵画の画家たちは「存在(~がある)」を描き、印象派の画家たちは「現象(~に見える)」を描き、そしてポスト印象派のゴッホは「主観(自分は世界を~の様に見る)」を描きました。
ゴッホを始めとするポスト印象派の画家たちは、刻一刻と変化する印象(現象)を描く印象主義の即興的な画風に満足できずに、目に見えぬもの(人間の複雑な内面や感情)をいかに画面に表現するかを試みました。ゴッホにとっても「色彩とは物を彩るだけではなく意味を与えるもの」でした。
精神的に疲れ果てて描かれた「カラスのいる麦畑」は、重苦しい不安なムードにあふれた作品です。聖書で死を暗示する麦畑。それを左右に分断し彼方に続く道を、自分が歩んでいくイメージを感じながら描いたのでしょうか。

短いストロークのタッチの麦畑と空。目の前の現実の風景が心象風景へと変わり、青色と黄色の補色対比が精神性を強めています。空の青のグラデーションが美しい作品です。
フェルメール・ブルー
フェルメール《牛乳を注ぐ女》1660年

ゴッホ《黄色い家》1888年

ゴッホは、いつかフェルメールの青と黄色で描きたいと憧れていました。
ヨハネス・フェルメール《ヴァージナルの前に立つ女性》1670年頃51.8×45.2cm

フェルメールと言えば、ウルトラマリンブルー(群青色)です。アフガニスタンの特定の地域で採れるラピズラズリ(青金石)から作った顔料です。交易で海を越えて各地にもたらされたのでウルトラマリンブルーと呼ばれましたが、フェルメールが多用した色でもあることから「フェルメール・ブルー」とも言います。当時、ラピズラズリは金よりも高価な鉱石だったため、画家たちは聖母マリアの着衣にしか使えなかった程でした。そんなウルトラマリンブルーをフェルメールは贅沢に、しかも風俗画に多用しました。彼の死後多額の借金が残されたという話はうなづけます。
フェルメールの作品には珍しく、窓から差し込む光に背を向けて立つ女性を描いています。肩かけ、袖、そして腰から下への光の表現は美しく、見ていて飽きない程です。
部屋全体が均一な柔らかい光に満ちていて、窓の下のあの隅には、腰を下ろしてみたら心地よさそうなスペースがあります。

夫人の表情には気品と高潔さが感じられ、それを裏付けるように背後に掛けられた画中画のキューピットが「貞節」を表す(図像学)一枚のカードを掲げています。
北斎のベロ藍
フェルメールが多用したウルトラマリンはとても高価な顔料だったため、それに代わる青の顔料が発明されます。それがプルシアンブルーです。1704年から1710年にかけてドイツ・ベルリンで、赤い顔料を作ろうとした時偶然に発見されました。プルシアンブルーは、日本には1807年オランダ船の船員によってもたらされ、ベルリン藍から「ベロ藍」と呼ばれました。
北斎はそのベロ藍を版元の永寿堂から手に入れます。初めてベロ藍を水に溶いてみた時「これだ。この青を、植物繊維から採れる濃い藍と掛け合わせれば、素晴らしい空や水が描ける」と感嘆の声を上げたそうです。
葛飾北斎 富嶽三十六景より《深川万年橋下》

富嶽三十六景の初版は1823年頃から始まり、1831年頃から1835年頃にかけて刊行されたと考えられています。
中央に印象的に描かれた万年橋のアーチが美しく、橋を行き交う人々の賑わいに活気が感じられます。司馬江漢が西洋画の手法「遠近法」を用いて描いた銅版画を見た北斎は、遠近法を用いて制作しました。両岸の家並みが極端な遠近法で描かれています。
ベロ藍が美しく描かれていて清々しい作品です。