「知覚神経としての視覚によって覚醒される痛覚の不可避」
静岡県出身 2007年東京芸術大学大学院日本画女性初の博士号取得(博士論文タイトル「知覚神経としての視覚によって覚醒される痛覚の不可避」)美貌 絹本 修練 成山画廊 痛み おぞましさ ダミアン・ハースト フランシス・ベーコン ピーター・ウィトキン
松井冬子《浄相の持続》2004年 絹本着色 軸 29.5×79.3

インパクトのある作品と特異な経歴、そしてその美貌と共に数年前一気に時の人となった松井冬子。
女優かモデルかと思わせるような雰囲気でメディアに登場してきた彼女は、「自分は鼓膜が破れるほどの暴力を男性から受けた。それによって自分の中に攻撃性が生まれ、芸術と言う異次元に放出している。」という旨のことを何度も語っていた。それは画家の側のことであって、私たちが鑑賞する作品としては何も関係のないことだった。メディアに持て囃され、自分の作品の解説をする画家に違和感を感じた人もたくさんいただろう。
松井冬子の代表作「浄相の持続」は、横たわる裸婦の体が切り裂かれ、内臓が露わになっている。作品の中心に位置する子宮の胎児も露わになっている。女性の表情は、冷静で兆発的、かすかな微笑みもさえも感じられる。作品には違う季節に咲く花々が同時に描かれ、西洋の警句「メメントモり(死を忘れるな)」という言葉も織り込まれている。彼女は、「幽霊」「死体」「内臓・脳」「切り裂かれた皮膚」「動物(犬)」などをモチーフとして、「生と死」「狂気」「暴力」「恐怖」を描き出し、観る者にある種のおぞましさや痛みを感じさせる作品を描いている。そしてそれらが強調された表現により、私たちは、松井の言う「知覚神経としての視覚によって覚醒される痛覚の不可避」という狙いに嵌ることになる。インパクトがある作品ということだ。
松井冬子《完全な幸福をもたらす普遍的万能薬》2006年 絹本着色 59×58.5

松井冬子《切断された長期の実験》2004年 絹本着色 53×79.5

彼女の作品の魅力をあげるとしたら、やはり線と透明感のある彩色という事ではないだろうか。
紙本に絵の具を何度も塗り重ねる、微妙な色彩表現の美しい作品が多い昨今の日本画の世界にあって、松井は線を生かした画家の一人だと思う。内容はともかく、美しい線の芸術である日本画本来の姿に戻ったかのような表現は、顔料を塗り重ねた厚塗りの日本画に見慣れてきた私達に新鮮な感情を抱かせたのだ。絹本に岩彩・軸装を選択したところに彼女の成功はあると思う。そして、彼女の修練の結果でもあると思う。
彼女はよく「エッジ」という言葉を使う。「エッジが効いてて耽美でウェットでドロドロした作品が好き」という彼女の言葉は、彼女の作品の特徴を簡潔に言い表していると思う。
また、彼女の作品には観る者が読み解こうとする図像が多く描きこまれていて、それらを探ろうとしているうちに、彼女の思惑通り「松井ワールド」へと取り込まれていく。
高山辰夫《曙》1974年

油彩画のように絵の具を重ねることにより、微妙な美しい色合いと重厚なマティエール(画肌)が表現された作品。 ゴーギャンの影響が感じられる作品。
ポール・ゴーギャン《母性》1899年

町田久美《レンズ》2007年 雲肌麻紙に青墨、茶墨、岩絵具、顔料、鉛筆、色鉛筆

町田も現代の日本画を代表する作家。モティーフ(切り裂かれた皮膚)や、修練された緊張感のある描線という共通点がある。町田の場合は墨で何度も引き重ねられたストイックな一本の線である。
町田久美《夜の出来事》2006年 60.5×73

子供の耳から獣の足が引っ張り出されているという奇妙な作品。獣の足が違う材質のもので表現されていて、奇妙さが強調されている。
紙に引かれたストイックな線が作り出す空間が美しい。その線と抑制された少ない彩色だけで、質感・量感・のっぺりした皮膚感覚を表現しているところに町田のすごさがあると思う。丸坊主の頭が、これ以上大きくても小さくてもいけないぎりぎりの大きさにクローズアップされて緊張感も感じる。
さて本来日本画は、装飾と結びついているジャンルであるため、日本画の過去の歴史を見ても、皮膚を切り裂いたり内臓をあらわにしている作品はほとんど無かった。次の《九相詩絵巻》からの一枚は、人間が死んだ直後から骨が散乱するまでの様子を九段階に分けて描いた仏教絵画だ。これは犬に食いちぎられる死体を描いたもの。目を背けたくなるようなおぞましさがあるが、煩悩に囚われても人間の行き着く姿はこのようなもの、死を忘れずにいなさいという教えがストレートに伝わってくる。
《九相詩絵巻》より

松井冬子《終極にある異体の散在》2007年 絹本着色 124×96.5

この「九相図」や「腑分け図」に影響を受けた松井の場合はどうだろうか。
戸惑いながら何処かに逃れようとしているのか、その背中や腕は切り裂かれ、鳥たちが襲い掛かって女性を餌食にしようとしている。足元には今にも女性の足に噛みつこうとしている犬が描かれている。九相図を知らない人にとっては、確かにインパクトはあるだろう。しかし、女性は発光しているような美しさがあり、背景の植物も調和して、おぞましさというよりは幻想的な印象を受ける。もちろん松井の狙いは「仏教の教え」ではない。本人曰く「自分の情念を吐き出している」。そしてその彼女の作品に癒されている(救済)女性が多いのも事実なのだ。彼女の作品は、グロテスクな表現ではあるが、それを突き抜けて聖なる存在を描き出そうとしているのではないだろうか。「印刻された四肢の祭壇」の女性の口元と、「洗礼者ヨハネ」の口元に共通したものを感じる。
松井冬子《印刻された四肢の祭壇 部分》2007年

レオナルド・ダ・ヴィンチ《洗礼者ヨハネ》

「おぞましさ」を描くアート
おぞましさとは、怖さとは違う思わず顔を背けたくなるもの。嫌悪感や不安を感じるもの。
フランシス・ベーコン(1909~1992)アイルランド、ダブリン出身
第二次大戦後いち早くニューヨークを拠点にして興った「抽象表現主義」が国際的な拡がりを見せる中、そんなアートシーンには関係なく具象絵画にこだわり描き続けた画家。
「私達は肉であり、いつかは死体になる。肉屋の店にはいると、そこにいるのは自分ではないのが驚くべきことだといつも思う。」 ベーコンの言葉
ベーコンは自分の作品について聞かれ、「自分が惹かれるイメージを再現しているだけ」と述べている。再現された彼のイメージは、私達に解釈する時間を与えず、視覚から一気に神経に強く訴えかけて来る。
人間なのか動物なのか分からないような生き物がこちらをじっと見据えていたり、がっと大きく開かれた口からはおぞましい叫び声が聞こえてくるようだ。デフォルメされた体の一部は溶け出しているようにも、どんどん増殖していく生物のようにも見える。絵画はキャンバスに絵具を乗せた「物」であるはずが、自分の中の非日常的な神経が反応し出し、ベーコンが再現したイメージに揺さぶりを掛けられるのだ。
フランシス・ベーコン《ペインティング》1946年 油彩・パステル 197.8×132.1 ニューヨーク近代美術館

フランシス・ベーコン《頭部Ⅵ》1949年 93×77

フランシス・ベーコン《自画像》1973年

ダミアン・ハースト(1965~ )
イギリスのコンテンポラリーアーティスト
「Natural History」という、死んだ動物をホルマリン漬けにした作品のシリーズが有名。
1995年に、牛の親子を縦に切断してホルマリン漬けにした作品でターナー賞を獲得しています。
「生と死」をテーマに、常識を超えたスケールで我々を驚愕させる作品を創出した。
ダミアン・ハースト《This little piggy went to market,this little piggy stayed at home》1996年

「アートが何なのかを気に掛けるのはやめた。ギャラリーの壁や床に展示してあれば、それが多分アートなんだろう」(ハーストの言葉)
ダミアン・ハースト《The Virgin Mother》2004年

ジョエル=ピーター・ウィトキン(1939~ )アメリカのフォトグラファー
両性具有者やフリークス・解剖用の死体・動物の死骸などを被写体とし、ただ生々しく撮影するだけではなく、いろんな小道具を集め独特の美意識でアレンジしている。描かれたものではないリアル(写真)さゆえに衝撃的である。見てはいけないものを見てしまった時の戸惑いと驚きが「こんな世界があったんだ」という思いを呼び起こさせるところに、ピーター・ウィトキンの魅力がある。
ピーター・ウィトキン《ナンの肖像》1984年

ピーター・ウィトキン《The result of war》1984年

松井冬子の作品には、こうした「おぞましさ」さえもテーマとしてきた世界の現代アートの流れが織り込まれていると思う。さらにサブカルチャー(アニメ・漫画)を取り込んだ具象表現が優位な日本の現代美術の背景とも重なり、松井の作品(日本画)がコンテンポラリーアートの場で語られるようになった。そして、彼女と組んだ画商の戦略的なプロデュースの力に依るところが大きいことも忘れてはならないと思う。