「写真における唯一の真実は、ある場所にカメラがあったということだけ」
トーマス・デマンドの言葉(「studiovoice」インタヴュー記事より)
トーマス・デマンド《部屋》1994年 Cプリント 183.5×270.3cm

トーマス・デマンド《浴室》1997年 Cプリント 160×122cm

人物が存在しない部屋や浴室の写真。 「部屋」は破壊されてはいるものの、よく見ると壊れたものは人が長年使ったとは思えないほど傷や錆や汚れが無く、無機質でどこか重さに欠けている。破壊されたようにセッティングされた映画か舞台の室内の様だ。ここで何があったのか理解しようと試みるのだが、どうにも奇妙な感覚がそれを阻む。現実感がないのだ。「浴室」にはつい先ほどまで人がいたのかもしれない、日常のありふれた室内空間だ。マットの歪みなど、いつもしているように手を伸ばして直したいくらいだ。しかし、しばらく見ているとやはり奇妙だ。タイル・カーテン・ドア、そして浴槽の表面に至るまで、私たちが触れて知っている材質感が無く、均一で現実感に乏しい。
トーマス・デマンドの手法は、すでに新聞などのメディアで発表され何度も流されている写真や画像(実際に起きた社会的・政治的な事件の場面)を基にし、ほぼ実物大に紙の立体物として再現する。そしてそれを撮影し、巨大なサイズの写真作品として仕上げる。撮影後、その被写体(紙の立体物)は壊されて、彼の写真の中にだけ存在することになる。
「室内」は1944年のヒトラー暗殺未遂事件の際の爆破された総統指令本部であり、「浴室」はいまだに解明されていないドイツの政治家の死亡現場であるらしい。私たちにとってそれらの背景は聞かなければ知りえないことであるが、そんなドラマティックな(暴力的な)ストーリーを基にし、緻密に再現されているにもかかわらず、彼の作品は静寂・非現実性からくる違和感・不気味さに満ちていて、センセーショナルな場所であることを感じさせない。デジタル処理をすることなく、様々な材質のものをすべて紙に置き換え再構築させることで、新たな現実が立ち現われてくる。新たな現実が作れてしまう。リアルだけれどもリアリティが無い、アンビヴァレントな感覚(相反する感情を同時に持つ)を起こさせる。彼の作品は、現実の残滓でも記録でもなく、「リアリティ」への問いかけではないだろうか。リアリティというものの曖昧さを表現しているのではないだろうか。
カメラの前にある物で、何を撮って何を撮らなかったのか、誰が撮ったのかということは真実ではなくて、誰かがカメラのシャッターを押したということにすぎない。つまり、
「写真における唯一の真実は、ある場所にカメラがあったということだけ」
そして彼は、*「印象派の画家たちが外に出て木々の風景を描いたように、僕の木々はインターネットやニュースペーパーの中にある」と言っているように、すでに消費されている画像からイメージを抽出し、特異な手法で新しい風景や情景を作り出している。
*「僕はすべてを紙で置き換えているわけではない。僕の時間を、写真の中にだけ存在する時間に置き換えてもいる。その意味では、僕自身の写真を作っているということでもある。再・私物化ってことかな」
*「studiovoice」インタヴュー記事より
《Shed》2006年 Cプリント 177×200cm

2003年アメリカのイラク侵入の際の、サダム・フセインの隠れ家の写真を基に制作された作品
デマンドの被写体は、室内だけに止まらない。
《飛び込み台》1994年 Cプリント 150×120cm

トーマス・デマンドは1964年ミュンヘン生まれ。1987年から2年間インテリアデザインを学ぶ。そののち3年間は彫刻・建築模型を学び、写真はそれらの作品を残す手段として使っていたが、1993年以降はそれらが逆転し、緻密に作られた模型(彫刻)を撮影した写真を発表している。
ベルリン在住