アンリ・マティス(1869~1954)
マティスは両親の希望で法律家になり、21歳の時病気療養中に母から送られた絵具を手にするまで、絵画とは無縁でした。1年後、画家になるためパリに旅立ち、ブーグローの美術教室に入りました。1892年末にはギュスターブ・モローの教室に聴講生として入り、「献身的な教師」モローの指導のもと、マティスはそれまでの説明的なデッサン・忠実な模写を止め、内面的なデッサン・自由な解釈による模写を学んでいきます。さらに、モネやピサロの手法を模倣したり、ゴッホやルドンのような激しい色使いを試みます。又色彩によって量感を表現するセザンヌにも学び、新印象派のシニャックの影響で描いた点描による「豪著・静寂・逸楽」などの作品を経て、より自由なフォーヴ(野獣)の表現を生み出していきました。
1905年、前回ご紹介したフォーヴィスムが生まれます。


により強い衝撃を与える。絵画とは何よりも表現(エクスプレッション)である。

このようにフォーヴィスムは、色彩を現実から解放しました。
しかし、フォーヴィスムの時代は3年という短期間で終わりを告げ、それぞれの画家が、次の変化を求めて模索し始めるのです。
マティスの場合はどうだったのでしょう。
マティスはフォーヴィスムから離れ、より平面的な表現の可能性を探る方向へと向かっていきます。

《生きる喜び》1906年 174×238cm

フォーヴィスムの作品と比べると違いが分かると思います。
「生きる喜び」はマティスのこの後の作品の源とされます。中心に描かれた小さな輪舞は、【ダンス】のモチーフとなっています。ダンス・楽器・抱き合う人々など、すべて幸福なイメージで描かれています。ゴーギャンの装飾性に影響を受け、曲線の戯れと鮮やかな色彩による装飾的な作品です。

《豪奢Ⅰ》1907年
薄く塗った絵具と線による表現
色彩による奥行き感を避けるために、シンメトリカルな配色がなされています。(右上の雲の色と左下の布の色を同じにする。手前の土と背景の山の色も同様)
奥行きの差を少なくするために、右の裸婦は前の二人と重ならないように描かれています。マティスは絵画の平面性を保ち続けました。
以後のマティスを特徴付ける線の美しさが表れている作品です。
次回「マティスⅡ」では、さらに推し進められていく平面性と、装飾性についてご紹介します。
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