フランソワーズ・ジロー ピカソと関わった数多い女性の中で、唯一ピカソを捨てた女性

第二次世界大戦も終わりに近づいてきた1943年、美しい画学生フランソワーズ・ジロー(22歳)に出会います。
ピカソ66歳の時に息子クロード、68歳の時に娘パロマが生まれました。ピカソも二人の子供に囲まれた家庭生活に安らぎを覚えたのか、子供達の遊ぶ姿を盛んに描いています。しかし二人の生活は10年で終止符がうたれ、1953年に子供を連れて自らピカソのもとを去りました。
《花の女フランソワーズ・ジロー》1946年

顔は花に、髪は葉に、胸は果実にとジローを植物になぞらえて表現しています。ピカソ程、どんな物の形でも「絵」にしてしまう能力がある画家は他にいないのではないでしょうか。緑色と水色の組み合わせが美しく、土を示す赤茶色が微妙な幅で、上に伸びるジローを支えています。
《緑の髪の女性》1949年

まず目に飛び込んでくるのは、画面を占有する黒い線です。踊るような黒い線がジローの髪や衣服を装飾的に引き立たせ、鑑賞者に多くを語りかけてきます。左上から垂れ下がる一本の線が、背景を生きた空間に変えています。“見たままを描かない絵”の楽しさが味わえる作品であり部屋に飾っておきたい作品でもあります。
ジャクリーヌ・ロック ピカソの晩年を共に過ごした二番目の妻。

離婚に応じなかった妻のオルガが病死したことにより、かって陶房の助手をしていたジャクリーヌ・ロック(43歳)とピカソ(80歳)は1961年に再婚しました。ピカソは晩年に向かい、ジャクリーヌのイメージを主として自由奔放な作品を展開していきました。1973年、ピカソがムージャヤンのノートル・ダム・ド・ヴィの別荘で亡くなるまで共に暮らしました。
《手を組んで座るジャクリーヌ》1954年

【敬愛する巨匠との対話】 “巨匠が居並ぶ西洋美術の列に加わる”
1954年から1963年にかけて、ピカソは、敬愛するドラクロア、ベラスケス、グレコ、マネなどの巨匠たちが描いた名作の場面設定や人物などを援用し、自分のイメージで“ピカソ・バージョン”と呼べるヴァリエーションを繰り返し描いてシリーズ化しました。
《ラス・メニーナス(ベラスケスによる)》1957年

ベラスケスの大作「ラス・メニーナス」を基にして58枚の連作が描かれました。原画が持つ奥行き感や光の効果などの劇的な空間がピカソを惹きつけたと思われまする。線が目立つ、無彩色(黒、灰、白)で描かれており、ピカソらしく、画面は幾つもの断片化された面で構成されています。原画ほどの深い奥行き感は無いものの、面が重ねられて浅い奥行き感が感じられます。原画と異なるのは、絵筆をとるベラスケスに代わって、天井まで届こうかという大きさで画家(自画像)が描かれ、国王や前景の従者が簡略化されて描かれているところです。作品のサイズもピカソは横長に変更しています。重層的に配された黒、白、灰色系統の色彩が劇的な空間を作り出し、無彩色(モノトーン)の美しさが一面に湛えられた作品だと思います。
ベラスケス《ラス・メニーナス(宮廷の女官たち)》1656年

宮廷画家ベラスケスが、画面中央の可愛らしい王女を描いている場面ではなく、ベラスケスが国王夫妻の肖像画を描いている部屋に(後方の鏡に二人の姿が映っている)、女官を引き連れた王女が入ってきた場面が描かれています。この作品は、画家ベラケスの視線ではなく、ベラスケスの前に立ち肖像を描かせている国王夫妻の視線で描かれているのです。それは、この作品を見る鑑賞者の視線でもあり、国王夫妻は鑑賞者と同じくこの絵の外にいるのです。複数の視線が存在するバロック絵画の名品です。
《ラス・メニーナス》1957年

《ラス・メニーナス》1957年

《アルジェの女》1955年

ドラクロア《アルジェの女》

《マネの草上の昼食より》1960年

マネの「草上の昼食」をピカソ流に変換した作品。マネの革新的な画家としての生き方に、ピカソはひきつけられたと思われます。ユニークで平面的な形に変形された人物像もさることながら、緑色を主にバランスのよい配色が画面の活性化を高めています。マネによって始められた絵画の平面化が、ピカソによって更に推し進められことに100年間の近代絵画の進み行きが示されています。
マネ《草上の昼食》1863年

マネは、写実主義のクールベ(「天使は見たことが無いから描かない」クールベの言葉)の影響を受けていたので、見たままの現実を、裸婦は裸婦として描きました。しかもその描き方は、鏡のようにツルツルしたものではなく、どちらかと言うと筆跡を残すような描き方でした。古典描法を打ち破るため、平面性が新しい表現であることを打ち出したのです。新しい絵画表現をめざそうというマネの芸術態度(前衛・アヴァンギャルド)にあこがれ、またアカデミックな絵画表現に飽き足らない若い画家達が、彼を慕って集まるようになりました。(後の印象派の画家たち)
《座るジャクリーヌ》1960年

ジャクリーヌの顔を幾つかの平面に分割し、それらを組み合わせて一つの顔にしています。キュビスムの時代を思い起こす表現である。それにしても、なんと複雑な顔の組み立てでしょうか。顔の中に様々な空間を感じさせ、作品の“見せ場”を作り出すピカソの造形感覚は衰えることはない。筆跡を残した絵の具の薄塗りが微妙な量感を効果的に表現しています。
目まぐるしいほどの変貌の後、晩年は過去の自作のテーマに戻る
《画家とモデル》1963年

「画家とモデル」は、ピカソが生涯を通じて繰り返し描いた重要なテーマの一つです。キャンヴァスを中央に挟み、見る者と見られる者に画家とモデルが配されています。画家側は暗さを感じる寒色、モデル側は明るい暖色で描き分けられ黄色い床が二人を繋いでいます。見つめているはずの画家の目が、緑色に塗り潰されているのは何故だろう。ピカソは男と女をテーマにして描きました。
1968年から1972年まで後期・最晩年の作品の特徴




ますます豊かになる色彩、比類のないピカソ・ワールドが作り出される
「日記を綴るように絵を描く」と語った様に、88歳で一年間に165枚の油彩画を描きました。形態を簡略化し、奔放な筆致で原色を塗り重ねた豊かな色彩の作品を多く描きました。
《肘掛椅子に座る女》1965年

《ヌードとスモーカー》1968年

《接吻》1969年

88歳になっても、このように愛のテーマを力強く表現できるピカソの底知れぬパワーに驚くばかりです。ピカソ本人と妻のジャクリーヌがモデルになっているのでしょう。直角にぶつかり合う顔、二人の鼻と口の輪郭線を共通させて一体感を作り出し、大きく見開いた目、湧き上がるような渦巻くヒゲによって愛の高まりが強調されています。背景の青のストライプが少し奥に向かう空間を作り出し、明るい青色が画面が鈍くなるのを防いでいます。
《レンブラント風の人物とアモール》1969年

ピカソの絵を「子供が描いたような絵」と評する向きがあります。この作品も、無邪気に子供が描いたように見えますが、実際には、子供はこのようにバランスのとれた構図の絵を意図的に描くことはできません。赤色と黄色の原色がみ合わされ、黒い線によってアクセントづけがなされているので力強い表現になっています。晩年のピカソは、年を取っても子供の絵のように描けることを願っていました。
《帽子をかぶって座る老人》1970年

《母と子》1971年

《音楽家》1972年

絵画表現のあらゆる可能性を探り “ピカソ様式”に至る
晩年の作品の特徴は、一回で決めてしまう躊躇いのない筆運びや、迷いのない色遣いにあると思います。評価が分かれる晩年の作品ではありますが、観る者を“飽きさせない作品”を描くことにおいては、最高の熟達が示されていると言っていいのではないでしょうか。上手く描くことから離れ、好きなものを好きに描くことの素晴らしさやそれによる訴求力の強さをピカソの作品は証明していると思います。
《若い画家》1972年

90歳の老境にあるピカソが、自分を若き画家として描いた自画像。軽妙で枯れた筆さばきが淡々とした雰囲気を感じさせています。しかし、穏やかな表情にあって、黒くて丸い瞳は何を見ようとしているのでしょうか。20歳の時に老成した姿で描いた肖像画と70年後に若い姿で描いた肖像画との間に、ピカソの画家としての一生が詰め込まれていると思います。
20歳の時描いた《自画像》1901年

《自画像》1972年

亡くなる前年に描かれた自画像です。このように正面から自分を見据えた作品はピカソの自画像の中でも数少ない。左右の瞳の大きさや色が異なる眼は、見開いてはいるが焦点を結べそうにありません。恐怖を浮かべたように青く塗られた相貌は、老いゆく自分の死への恐怖の表われなのでしょうか。ピカソは知人に、「昨日、素描を一枚作ったんだが、何かを表現できてると思うんだ。今迄に、描いたものとはちょっと違うんだ」と語ってこのデッサンを見せました。ピカソのように死の直前まで、観る者の興味を引き付ける作品を描き続けた画家はいないと思います。
ピカソは、若い頃から自分の偉大さを確信し、「芸術こそ自分、自分こそ芸術」と信じていました。
パブロ・ピカソ(1881~1973年)についてのメモ
※最も多作な画家としてギネス記録を持つ
13500点…油彩・デッサン 10万点…版画 34000点…挿絵 300点…彫刻・陶器
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