明治日本は、文明開化・欧化主義のもとに、政治、経済、建築、医学などの諸制度や諸技術を西洋化していきました。美術においても、西洋文明を取り入れて西洋諸国に追いつくために1876年(明治9年)工部美術学校を設立し、外国から美術家を雇い入れて西洋美術の教育を始めました。1896年(明治29年)東京美術学校(現東京芸術大学)が新設され、開校9年後に西洋画科を設置しました。パリ留学を終えて帰国していた黒田清輝を西洋画科の教授に迎い入れ、黒田による西洋のアカデミズムを基礎とした美術教育をスタートさせました。黒田は自らも「白馬会」という洋画の研究会を結成し、それまでの暗い色彩表現の「脂(やに)派」に対抗して、明るい色彩を採り入れた外光派(「紫派」)の描き方を広めました。1907年、フランスのサロンに倣い文部省美術展(文展)が創設され、国による美術体制(美術学校・展覧会)が整えられました。
※ 「美術」 ‥‥ 明治時代にドイツ語を翻訳してできた造語。
「日本画」‥‥ 明治時代に西洋画に対して新しく作られた用語。江戸時代は「大和絵」と呼んでいました。
近代洋画の画家たち 【明治時代】
サロン絵画・印象派の移入
■ 黒田 清輝 くろだ せいき(1866~1924・慶応2年~大正13)

1884年、法律を学ぶためパリに留学しましたが、途中で画家志望に転じて官展系外光派のラファエル・コランに師事する。コランから学んだ印象派の明るい色彩を取り込んだ外光派の描き方を持ち帰るとともに、伝統的な西欧アカデミズムを日本に移入しました。洋画家、指導者、美術行政家として近代洋画に残した足跡は大きい。
【外光派(紫派・新派)の特徴】 画面全体が明るい
光の当たるところ → 黄色系で着色
影の部分 → 黒ではなく紫色や青色を用いる
《湖畔》1897年 69×84.7 東京国立博物館 重文

青と緑を基調とした透明感のある淡い色調で描かれています。日本で、女性のもっとも美しい肖像画と言われています。明るい色彩と爽やかな空間の広がりが、新しい洋画の描き方として高い評価を得ただけでなく、油絵を日本化した作品です。女性を画面の端に寄せてクローズアップして描く描き方や、俯瞰(上からの視点)による表現は日本的な表現です。
黒田が師事したラファエル・コラン《海辺にて》1892年

【コランの描き方】
伝統的アカデミズムに印象派的な表現を取り入れた“印象派的アカデミズム”
伝統的アカデミスムのサロン絵画

ジェローム《ローマの奴隷市場》1884年
明るい色彩を取り入れた印象派

モネ《アンティーブ》1888年
《読書》1891年

黒田清輝「智・感・情」1897~1899年 東京国立博物館 重文

右から「智」「感」「情」の題が付けられています。金地の背景に描かれた均整のとれた裸婦が、それぞれ謎のポーズをとっています。作者の黒田は「智」は理想派、「感」は印象派、「情」は写実派と、当時の画家の傾向を喩えたものであると説明していますが、現在も論議を呼んでます。絵画は写生ではなく、思想や物語的なものを表現した「構想画」を描くものであるという西洋アカデミズムの理念を黒田が作品化しました。
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【なぜ裸体画を描くことが、アカデミズムでは絵画制作の基礎なのでしょうか】
フランス国王ルイ14世は、宮殿を飾る「歴史画」や「宗教画」を描かせるために芸術家を集めました。それが芸術アカデミーとして国王直属の特権的な機関となり、画家や彫刻家を養成する美術学校を作ったり、サロン(四角い部屋の意味)と呼ばれる展覧会を開くようになりました。アカデミーにおいては、絵画の種類にランク付けがなされ、歴史画・宗教画・人物画が上位に位置し、風景画や静物画は下位に置かれていました。風景画を描く印象派の画家達がサロンで評価されなかったのもこの理由によるものです。モネやルノワールは、風景画ではサロンに入選を果たすのが困難なので、人物画に変えて出品したほどです。
アカデミーによる国立美術学校(エコール・デ・ボザール)では主に歴史画、宗教画を描くための技術(人体デッサン、古代彫刻の石膏デッサンなど)が教えられていました。
歴史画 ドラローシェ《エミシクル中央の群像》1841年

歴史画は多くの人物を描く必要があります。人物を正確に描くには着衣よりまず裸体の勉強をしなければなりませんでした。

人体を正確に描かなければならない。

着衣では正確な人体が描けないから裸体で描く
【ヌードと裸体の違い】
ヌード(nude)…… 芸術形式の一つとして理想化された裸体。
裸の人体を理想美へと成形
裸体 (naked) …… 衣服がはぎ取られた状態
黒田清輝《裸婦習作》1888年

■ 原田直次郎(1863~1899年)

黒田清輝より前にドイツに留学。印象派ではなく、ヨーロッパの古典的な画法を習得し帰国。滞欧中に描いた作品です。ヨーロッパの美術館に展示されていたら、誰も日本人画家が描いたとは思わない程の優れた観察力と見事な描写力に驚かされます。
■ 和田 三造 わだ さんぞう(1883~1967年・明治16年~昭和32年)
「南風」 1907年 151.5×182. 4

第一回文展で最高賞を受賞した作品。自らの漂流体験をもとにして描きました。強い陽光や風を見る者に感じさせ、明るい光を浴び、強い風に向かう堂々とした男性の裸体が印象的です。男性の英雄的な表現と日露戦争に勝利した国民の高揚した気分とが呼応して、広く支持された作品です。
■ 青木 繁 あおき しげる(1882~1911年・明治44年) 29歳没
明治ロマン主義を代表する洋画家
東京美術学校西洋画に入学し黒田清輝に学びました。古事記など日本の古代神話に題材を求め、神話的世界を豊かな想像力と正確なデッサン力で描き出しました。22歳で大作《海の幸》を描きますが、この時期が青木の絶頂期で、以後は精彩を欠きます。故郷の久留米に戻った後は放浪生活に入り、28歳の若さで亡くなりました。西洋美術の模倣ではない独自の表現は高く評価されています。
「海の幸」 1904年 (明治37年) 22歳 70.2×182 ブリヂストン美術館 重文


友人や恋人と旅行した千葉県館山市の布良海岸で制作されました。漁師たちが水揚げする実際の光景に、自分の内に抱く古代の世界(ビジョン)を重ね合わせて表現しました。画面の両端に描かれた人物が、明確に描かれていないので(未完)、右端から時空を超えて群像が現れ、再び左端に消えていくようです。
画面中央に描かれこちらを向く女性の顔は、恋人の福田たねの顔です。展覧会出品後に青木が手を入れ描き直しました。一人だけこちらを見ているので鑑賞者と目線が合い、画面に鑑賞者を引き入れます。それがこの作品を単なる群像画で終わらせてはいないところです。細部に拘らない大胆さ、適確な人体デッサン、人体の細やかな彩色は見どころの一つだと思います。
【ロマン主義(浪漫主義)とは】
・異境や過去にユートピアを求め、個性・空想・形式の自由を強調する。
・理性的、合理的なものよりも情緒的なもの、変化するもの、目に見えないものや人智を超えたものに
愛着を寄せる。
【青木繁が影響を受けたラファエル前派とは】
・1848年イギリスで結成された芸術家の集団。宗教的な主題、神話、寓意、文学、教訓を作品に
盛り込みました。
・迫真的な写実表現で夢や幻想、ロマンが融合した世界を描きました。
・多様な色彩描写、繊細な線描表現で意識的に古典的な表現をしました。
ラファエル前派 ミレイ《オフィーリア》1855年

青木繁《わだつみいろこの宮》1907年

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